iCharlotteblueの備忘録(新)

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明治維新から現代〜さらりとさらう日本の学生服の歴史

ちょっとしたつぶやきから長々語るに至った学生制服の文化と歴史。

ほんのすこし加筆修正して、こちらにもまとめてみました。

毎日着てる、日常着です!(そしてあたしの免罪符) - iCharlotteblueの備忘録(新)
これは直接は関係ないですが、追記的なあれです。(2014/1/12)

元々制服は好きだったのですが、京都の学校服専門店、村田堂さんが主催の「京都の教育と学生服のあゆみ展」に行って、制服文化や歴史の面白さに触れたのです。
展示に感銘を受け、京都の学校服専門店、村田堂さんに問い合わせたところ、送ってくださったのがこちらの資料です!

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「マンガで見る京都の教育と学生服のあゆみ」

「SCHOOL UNIFORM 学生制服の歴史と変遷」

村田堂さま、ありがとうございます!!


日本の制服は軍服がモデルです。明治日本、文明開化のシンボルとしての洋装。男子が一足早く、いわゆる「学ラン」に腕を通します。東京師範学校が取り入れたのが当時の陸軍の兵装。陸軍といえばカーキ色のイメージですが、日露戦争以前の兵装は黒色だったのです。
東京師範学校が制服を採用したのは明治19年。学習院では普通の学校と区別する意味で当時エリートとされた海軍の兵装をモデルに紺色にホック留めの制服を採用、今も踏襲しています。兵式体操や教練を契機に、軍服がモデルの洋装制服が師範学校や中学校に広まっていったのです。

先ほど紹介した「学校制服の歴史と変遷」に、面白いエピソードがありました。背広型の制服を初めて採用したのは慶応幼稚舎。大正9年です。昭和初期にはこの背広型制服を真似て、子供に似た服装をさせるのが、都会の山の手の家庭で流行したとか。
中等教育以上の教育を受けた人々がわずかだった時代。富国強兵の一端である軍服モデルの制服は、エリートのシンボルでもありました。

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文科省HP、「日本の成長と教育」(昭和37年度)より。

女子の洋装化はすんなりとはいきません。洋装とは、「はしたない」ものだったのです。袴もそうです。伝統的な和服以外の服装は、「はしたない」ものでした。
女学生ときいて袴姿をイメージする方は多いでしょう。明治5年、明治初の女学校、東京女学校の開校時、机と椅子での教育、裾の乱れを隠すために男袴を着用することに。男袴スタイルは他の女学校にも取り入れられました。しかし、明治16年、文部省は儒教的価値観にそぐわない、袴の着用を禁止します。
バッシングを受けた女学生の男袴の着用。そして鹿鳴館の時代、一端洋装に傾きます。華族女学校(学習院女子)、高等師範学校女子(お茶の水女子大の前身)…しかし洋化主義者であり、教育政策に関わってきた森有礼文部大臣の暗殺後、一気に和服へ戻ります。
そして、女袴が誕生するのです。
定番の女学生スタイルの誕生です。元禄袖や筒袖に女袴。女袴は、宮中の衣裳を参考につくられました。教育家の下田歌子が考案したと言われています。
女袴の誕生。はいからさんと呼ばれる、女学生スタイルが定番に。まだ和装が中心です。ヨーロッパで水兵服から児童服として使われるようになったセーラー服は、当初、日本の女学校では、体操服として採用されました。明治41年のことです。
女学生が通学服として洋服を着用することには反発がありましたが、契機となったと言われているのが関東大震災。一般社会でも洋装化が進みます。上下セパレートのセーラー服は、福岡女学院が体操服として採用、後に制服として全国で初めて採用されました。(ワンピースのセーラー服は平安女学院が全国初、先ほどの冊子表紙を参照)

こうして、元は体操服であったセーラー服にジャンパースカート、プリーツスカートを合わせたものが、一般的な女学生の格好となります。現在のような既製服生産が行われていない時代です。「制服」とはいっても、全く同じ既製服を購入する現在のスタイルとは異なります。

既製服産業が未発達だった時代、「制服」がすぐ(まず規模の違う)軍服のように、画一化したわけではありません。たとえば東京女子師範学校付属高等女学校が昭和5年に定めたのは5種類の標準服。学習院女子で大正14年に洋装の場合は紺のジムドレス(ジャンパースカート)かセーラー服という指定。
先述した福岡女学院平安女学院のように、ミッションスクール系の女学校が女学生の洋装化を牽引していました。そして戦中。スカートはもんぺに変わります。物資難の時代、服装にうるさくないのを利用して、限りある中、逆に思い思いのおしゃれをしたという女学生もいたようです。

昭和16年、「文部省標準女子中等学校制服型式」が定められ、ヒトラーユーゲントの女子制服を真似たものが採用されましたが、服地の欠乏もあり、普及に至らなかったようです。男子の標準服装はこのときの通達で、カーキ色に戦闘帽の陸軍スタイルに変わりました。

↓そんなおなじみの戦中の「標準服」がこちら。

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(村田堂制作「京都の教育と学生服のあゆみ」冊子表紙より)

戦後、日本の教育は大きく変わります。
学制改革後の制服の変遷は一言では表せません。
まず、大学は私服に。中等教育も一部のものではなくなりました。

制服制服と呼んでいますが実は、公立の学校ではほとんどが「標準服」と呼ばれているんですよ。
標準服という名の実質上の制服。実に日本らしいですね。
戦後、高校進学率は上昇。公立高校の総合選抜制度も各地で導入。学生運動もあり一部の高校で自由服化。
一方で、詰襟セーラー服、変形学生服の流行により、ブレザー化が進みます。変形するとダサいデザインに変える学校が増えました。
自由服化に関係あるのが当時の時流、私の世代では馴染みのない「総合選抜制度」。学力や地域よって受験生は学区内に平均的に振り分けられます。受験戦争の過激化から各地で導入されましたが、現在ではすべて廃止されています。ちなみに、庄司薫赤ずきんちゃん気をつけて』は総合選抜が導入されてすぐの日比谷高校が描かれています。

そしてバブル期には、DCブランドの学生服がブームに。学生服の商業主義的ブランド化が進みます。ヤンキー文化は廃れ、都市から発信される、都会的な着こなし。地方へと広まっていきます。平成に入り、制服のモデルチェンジはピークに。着こなしの多様化、ミニスカートが流行し始めます。
これは88年の本。

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「現在女子高生の制服は大きなターニングポイントを迎えている。(略)今、女子高制服はS・I(スクール・アイデンティティ)を旗印に(略)急なコーナリングに突入したのである。」
森信之『日本全国たのしい制服教室』

ブルセラ」という言葉も生まれるほど、おおっぴらに消費の対象に。その全盛期は、暗黒時代ともいえるでしょう。

また、女子を中心に、なんちゃって制服も流行します。消費の対象ではなく、生徒自身のものとして「学生」コスチュームを楽しむように。明治維新後、日本の女子学生の制服化は一足遅れましたが、もうすっかり制服=女子学生の制服と言ってもいいほど。
ギャルブームは落ち着き、ひとつの文化に。制服の着崩しも全国的に落ち着き、新設の制服も派手さは控えめ。透けにくい素材、キュロットスカート、快適な襟元、軽いジャケット、シンプルなアイコン。実用性を重視した改定が目立ちます。

さて、制服の衣装化といえばAKBグループ。アイドルには明るくないのですが、あの制服風衣装は今後の日本の制服観の大きなポイントとなるでしょう。
AKBがモデルというより、先に女子高生が「ギャル」から落ち着いて、保守化。
最近はそこにAKBブームが重なり、といったほうが正確かもしれません。

女子中高生向け雑誌に載っている着こなしは、女子中高生の平均層ではないのが、資料的に難しいところなんですが……街を見ると、きちんと正しく着こなす学生が以前より増えた印象があります。
女子高生自身の意識もありますが、私の地方の公立高校では、多くの学校が先代よりも服装、校則の締め付けが厳しくなる傾向でした。私が中学生のときにはミニスカで闊歩していたとある公立女子高は、今ではきっちりひざ下スカートです。
関西では伝統的に制服の着こなしは自由度が高いのです。派手なミニスカートだったり柄タイツできめたロングスカートだったり。同じ学校の生徒が並んで歩いています。私はどうしても同性の着こなしに目を向けてしまいますが、男子生徒も地域性、学校の個性があります。バッグや小物、靴下など。アンダーシャツの流行。

あなたのお住まいの地域の児童生徒さんは、どのような服装をしているでしょうか。
制服を着て学生時代を過ごした人も、そうでない人も、目を向けてみると面白いかもしれません。

歴史、伝統を背負った制服を着た学生、新しいユニフォームに包まれた学生、ちょっとだらしなく見えるかもしれないけれど、思い思いの着こなしをした学生。
どれもみんな、学ぶ生徒たちなのです。

http://i-charlotteblue.tumblr.com/post/51962563860