男子の詰襟は軍装由来か?誤解と事実と新たな疑問と(男子の詰襟は陸軍、女子のセーラー服は海軍由来はガセだッ!)
戦前の制服黎明期について、気になったことメモです。
"明治維新の時代の日本は富国強兵の思想に熱中していた。従って、軍事的な意味を帯びるこの制服を日本は気に合った" なぜ女子中高生が海軍服を?『セーラー服』の歴史の雑学 http://t.co/s7Kyaqn2zx
— 森伸之 (@gooitch) 2014, 2月 11
日本でセーラー服を早くから採用した女学校の多くはミッションスクールで、富国強兵の思想どころかむしろ戦中は国に煙たがられていた存在。この理屈は無茶だろ。と思ってソースを見たら中国の国営通信社だった。http://t.co/FpAtOM3f1I
— 森伸之 (@gooitch) 2014, 2月 11
いや本当にこの森伸之氏の指摘はごもっともで、女子の学生セーラー服と軍服(当時の富国強兵、そして男子の士官服モチーフの詰襟との比較)を結びつけるのにはかなり無理があります。時代が微妙に違います。
— 西田藍 (@iCharlotteblue) 2014, 2月 11
この誤解は結構広まっているので、定期的に違うということを呟いています……https://t.co/rHTovo9r6e https://t.co/wvi7e393OK
— 西田藍 (@iCharlotteblue) 2014, 2月 11
そうです、私は以前から、女学生のセーラー服は軍装由来ではない!と定期的に訴えています。
男子は陸軍から詰襟、女子は海軍からセーラー服、というのは全くの誤りなのです。
ここの年表は、女子と男子の洋装化のずれが、とても分かりやすいので、ぜひ見てください!
男性は、(江戸時代から洋式軍装が盛んに→明治の文官礼服は洋装→)明治19年には学習院で学生の衣類として即詰襟採用
女性は、椅子に座ると裾が乱れるので学生に男袴が認められる→禁止→バッスルスタイル(ドレス)→洋装禁止→東京女子高等師範学校で紺の女袴採用→ハイカラさんな袴女学生が広まる→体操袴の開発→体操服としてセーラー服普及(欧米では、セーラー服は子供服、婦人服として既に普及していました)→ミッションスクールなど通学着として採用→関東大震災で婦人の洋装化→昭和に入って、女学生完全洋装化
と、洋装化にすごく時間がかかったのです!
しかし、女子学生服の流れは、自分でも割と知っているぞ!と自信があったのですが、その流れで、フォロワーさんと対話を続けるうち、日本の洋装制服の発祥、男子の学生服について、いまいち知識が足りないな、と気付いたのです。
時系列に直すと…
明治12年(1879) 学習院:渡辺洪基次長の立案によって海軍士官型の男子の制服制定*1
明治19年(1886) 帝国大学:陸軍制服を手本に採用。*2
明治30年(1897) 高等師範学校:制服が制定される。*3(モデルは陸軍タイプ説ありだが明確なソース元不明)注:ここで手元資料とwebで調べた結果が違うので、要出典なのです…
明治19年(1886年)には、文部省の通達により、高等師範学校に制服を制定することが決まり、村田堂は、明治22年(1889年)に学生服を製造・販売を始めました。http://www.muratado.co.jp/historyofu/index.html?sess=16fa6531d49fa810cd58e2c3df406681
このような記述もありますし、
明治19年、文部省の通達で、高等師範学校で陸軍下士官の服装がモデルに制服が制定されました。黒に金ボタンの典型的詰襟です。学習院、(その後、東京府立第一中学校なども)は海軍士官の略装がモデルの、ジャバラにホック留、紺地です。@japagajp @sasakitoshinao
— 西田藍 (@iCharlotteblue) 2014, 2月 12
(続) また、背広型の制服をはじめて採用したのは、大正9年、慶應義塾幼稚舎が最初と言われています。学服研究協議会発行「学校制服の歴史と変遷」(制作 林三郎 桜美林大学講師) という冊子に書いてありました。@japagajp @sasakitoshinao
— 西田藍 (@iCharlotteblue) 2014, 2月 12
と、手元資料にはあったのです。
しかし、
中学校には制服があり、男子は、明治期創設の学習院中・高等科と似た、海軍兵学校(現・海上自衛隊幹部候補生学校)学生服型(ネイビーブルー。セーラー服同様に着丈が短く、詰襟で前合わせもホック留め、前合わせ・襟・袖に黒の蛇腹リボン装飾の上着。昔の海軍士官型でもある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/筑波大学附属中学校・高等学校
と、高等師範学校の尋常中学科が前身の付属中には、海軍タイプ制服が現在でも残っています。
さて、高等師範学校の真実はどこに!?
そしてそもそも男性の洋装化の知識が少ないことに気付きました。
詰襟でなく、洋服の制服だと、札幌農学校、工部省工学寮は、主に作業や実験用、運動用に、明治6〜7年に既に洋服の制服があったそうです。実学の為。そして近代式の新しい軍隊も、もちろん洋装です。そして、上流階級。華族という出自がバラバラの新しい貴族階級、そしていきなり立場が変わった皇族。一気に西洋化です。華族皇族の正装、天皇の軍装、私はぜんぜん明治の流れをきちんと知らないのです!
これは日本の近代式軍隊の制立、それ以前に明治維新についてもっと勉強しなければいけません。中卒大ピンチ!これも学生服の為です。少しずつ知るしかないなあ。
日本の陸軍は最初黒色だったのですが、目立ちすぎたので、後にカーキになりました。
最初からカーキだったら、また上官もカーキだったら、今の学生もカーキが多かったかも、なんて。でも……
こちらの江津匡士氏のツイートで、前述した「男性の洋装化」に関する自分の無知に気付かされたのです。
@iCharlotteblue そのコクヨのサイトにある「学習院の詰襟は当時の宮内高等官型を採用」との記述から、これまでの海軍、陸軍という考え方に疑問を感じ出しモヤモヤしております。
— 江津匡士 (@japagajp) 2014, 2月 14
↓そのトンボのサイトはこちらです。(コクヨは誤字です)
学習院詰襟 明治12年(1879年)採用(所蔵 学習院大学史料館)
公家や華族子弟の教育から始まった学習院が明治12年に採用した詰襟。当初制服はなかったが、生徒間で服装に関する競争が起きるなど弊害が目立ったため、制服を採用することになった。当時の宮内高等官型を採用し、冬は紺、夏は白色で、同色の蛇腹を縫い付けたホック式。徽章の桜花は『敷島の大和心を人問はゞ朝日に匂う山桜花』の歌の意味を表している。
封建教育から近代的教育へ、明治の大英断|学ぶスタイルの変遷|株式会社トンボ
そう、軍隊もそうですが、軍に関係ない上流階級も洋装化にやっきになっていた時代なのです。
公家も武家も寺院の偉い家系の人も武勲を上げた人も、まとめて華族になっちゃって、洋装化!
つい、鹿鳴館に象徴される、華やかなバッスルドレスばっかり気になっちゃうけど、男性の洋装化のほうも、軽視できないぞ。
女性は、一度、学生の洋装化が禁止されるという流れがありましたが、男性はそのまま一直線。はしたなさや保守性を求められなかった分、単純に見えますが、対女性(袴、洋装は女性解放と繋がります)と違って、男性が思う、男性自身の洋装化への抵抗は全くなかったとはいえないと思います。
メモと、情報提供のお願いとして。
いい資料、書籍を知っている方がいらっしゃったら、ぜひ教えてください!
日本の軍装自体、これを中学のとき、図書館で読んだきりの知識。
また読み返さなきゃ!
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